私たちの建設業は、某建設会社のキャッチコピーにあった「地図に残る仕事」のみならず、下水道や鉄道・道路のトンネルなど、「地図ではわからない仕事」にもたずさわっています。今回の特集は、確実に社会に貢献している「私たちがつくった日本一の建造物」のいくつかの事例を振り返り、建設産業で働く私たち自身の役割と、建設産業の存在意義を再認識できればと思います。

 ダム日本一  ビル日本一
 吊り橋日本一  鉄道トンネル日本一

ダムの高さ(堤高)日本一 「黒部ダム……186m」


黒四ダム。夏の放水。石原裕次郎主演の「黒部の太陽」は黒四発電所工事を描いた映画として有名になった。
黒部ダムの高さ(堤高)は、186mで日本一です。
黒部川の流域は全国屈指の降水地域で、年間雨量は平均4800ミリもあり、周辺区域には年間31億トンの雨や雪が降ります。川が急勾配なので、山岳地帯で厳しい自然環境ですが、開発されれば黒部は発電事業に最も恵まれた河川です。明治末期に始まった水力開発の幕開け以来、黒部川が着目されたのは当然のことでした。

最初に黒部川の開発を志し、事業化をはかったのは「タカジアスターゼ」の発見で有名な工学・薬学博士の高峰譲吉でした。大正7年に三井鉱山から上流部(黒部第1から第3)の水利使用許可を譲り受けましたが、大正11年末、日本電力株式会社(大阪に設立、京阪神に電力の卸売りをしていた)に譲渡しました。

黒部川。北アルプスの立山連峰と後立山連峰に挟まれた大渓谷。稀に見る多雨豪雪地帯であり、そのうえ急峻な川。
日本電力は、大正13年に柳河原(黒部第一)発電所を着工、昭和2年運転開始。黒部川第二発電所は昭和11年運転開始、同年黒部川第三発電所は反対もありましたが、満州事変後の国策により着工されました。この工事は高熱(60から120度C)の岩盤との格闘や雪崩による死亡事故など筆舌に尽くし難いものでしたが、昭和15年運転開始にこぎつけました。

戦後は黒部川流域の発電所は関西電力が開発し、あの有名な黒部第四発電所(通称:黒四)をはじめ、既存の発電所を改良して関西方面に約60万キロワットの電力を供給しています。ちなみに、60万キロワットの電力とはどのくらいのものかというと、おおまかにいって一般的な家庭の約20万軒分の使用量に相当するそうです。

まえおきが長くなりましたが、黒四発電所の建設は、関西電力の社運を賭けた大事業でした。立山直下の標高1448mの御前沢に有効貯水量1億5000立方メートルの大ダムをつくり、この水を10.3km下流の東谷の地下発電所に導き、560mの落差によって、最大25万8000キロワットの発電をおこなっています。昭和31年に着工し、7年の歳月をかけて当初予算の約1.4倍である513億円の工事費、延べ990万人の建設従業者によって完成しましたが、殉職者も171名におよびました。

また、昭和2年に黒部川に初めて完成した先の柳河原(黒部第一)発電所のダムが土砂で埋まり用を足さなくなるため、代替施設として、平成5年周囲との景観調和を考えた新柳河原発電所が造られました。黒部川の電源開発はいまもなお続けられているのです。
ビルの高さ日本一 「296m …… 横浜ランドマークタワー」


「みなとみらい21(MM21)」は幕末・安政6年の開港以来、横浜の都心部として発展してきた関内、伊勢佐木町地区と、戦後急速に発展してきた横浜駅周辺地区、この両地区に囲まれた約186haの地区をいいます。横浜ランドマークタワーは桜木町駅から北約200mに位置し、横浜「MM21」中央地区区画整理事業地区内の25街区にあります。桜木町駅からは動く歩道が導入され、タワー低層部の商業施設はトップライト付きの5層吹き抜け大空間のアトリウム(中庭)となっています。平成2年に工事着工し、平成5年に竣工したこのビルは、地域のシンボルとして地下3階・地上70階(塔屋3階)からなり、ホテル、オフィス、ショッピングモール、フィットネス、69階の展望フロアー「スカイガーデン」など、複合的に造られています。その最高高さは296mと日本一です。

「横浜ランドマークタワーは形態がユニークであり、私の知る限りこのようなビルは世界に存在しない」と、H・スタビンス氏は語っている。右は工事中(1991年4月16日)のランドマークタワー。
タワー正面には地下レベルに旧横浜造船所第2号ドックが「横浜認定歴史的建造物」として保全活用され、ドックヤードガーデンと名づけられるとともに、格好の憩いのスポットになっています。近代的な建物と古いドックヤードガーデンとの取り合わせが、独特の雰囲気をかもし出しています。このドックヤードガーデンは平成9年に国の重要文化財にも指定されています。一見の価値があるかもしれませんね。

このビルは地震ばかりでなく、強風にたいしても揺れをコントロールしなければならなかったので、2方向に同時に作動する制振装置を2台設置しています。簡単にしくみを説明すると、最上階に重りを設置して、コンピュータ制御で地震や風の揺れと反対の方向に移動させることで揺れを制御する方法です。5年に一度発生するような強風にたいしても、不快な揺れを感じないということです。

吊り橋の長さ日本一 「1991m …… 明石海峡大橋」


橋にもさまざまな形式がありますが、なかでも吊り橋は、主塔に架けられたケーブルにより橋桁を支える形式で、一番長い距離を一気に超えられる形式です。
明石海峡大橋は神戸市垂水区舞子と淡路島の津名郡淡路町松帆の明石海峡にかかる吊り橋で、昭和63年から工事に着手し、平成10年に完成しました。この橋の開通により四国と関西の距離が格段に近くなり、その経済効果が期待されているところです。現時点での一日あたりの車の通行台数は、約2万7千台になっています。
明石海峡大橋では、瀬戸大橋までの技術より、さらに巨大化した基礎と未固結地盤の揺れかたを考えた耐震設計法を開発し、長大橋基礎の合理的・経済的設計を実現しました。その結果、平成7年1月の直下型の阪神大震災においても、橋本体に損傷はありませんでした。風速80m/秒の風にも耐えられる耐風設計基準を作成するとともに種々の振動防止技術を開発したのです。また、高強度ワイヤーの開発で、従来は直径1000ミリのケーブルが片側2本必要であったのが、直径1100ミリのケーブル1本とすることができ、経済的に大きく貢献しました。
明石海峡大橋ができるまで、昭和56年に完成したイギリスのハンバー橋(1410m)が長大吊り橋の代表でした。しかし明石海峡大橋は 1991mを誇り、日本一かつ世界一の「長い吊り橋」であるとして、ギネスブックからも認定をうけました。

左:明石海峡大橋。まっすぐに伸びた幾何学の帯が美しい。
中:完成したキャットウォークは空中の作業足場。工具が海に落ちないよう、金網やネットが3重に張られている。
上:大ブロック架設。高所作業で風の影響が強いので、部材はできるだけ地上で組みたて、クレーン船で架設する。

375mの日本一長い歩行者用吊り橋 「竜神大吊り橋」
規模は大きくないのですが、茨城県久慈郡水府村の吊り橋を紹介します。、奥久慈県立自然公園に位置し、V字形の美しい渓谷をながれる竜神川をせき止めた竜神ダムの上に、歩行者専用の竜神大吊り橋が架けられています。歩行者専用の橋としては日本一の長さで375mあります。
ダムの湖面よりの高さは100mもありますので、橋の上からの眺めは四季折々に楽しめるということです。高いところが好きな方は、ぜひ一度わたってみてはいかがでしょうか。

鉄道トンネルの長さ日本一 「53.9km …… 青函トンネル」


昭和29年の台風15号で函館港を出港した青函連絡船洞爺丸が転覆、ほかに3艘の連絡船が沈没しました。このころ、本州と北海道の行き来は、飛行機などの利用はほとんどなく青函連絡船などの連絡船の利用が主な交通手段でしたので、天候に大いに左右されていたのです。もともとこの海底トンネルの構想は昭和14年ごろから提唱されていましたが、遅々として進まず、やっと昭和28年に漁船を使った地質調査がスタートしたところでした。まさしくこの洞爺丸遭難が、青函トンネルの早期着工の火付け役となったのでした。

経過をたどると、昭和35年 潜水艦「くろしお2号」で海底探査、昭和39年 北海道側吉岡調査斜坑着工、昭和41年 本州側龍飛調査坑掘削開始、昭和58年 先進導坑が貫通、昭和60年 本坑全貫通、昭和63年 青函トンネル営業開始となります。洞爺丸遭難から実に34年、調査坑の着工から24年という長期間のビッグプロジェクトでした。この間、特に北海道側では難工事が重なり、大出水にも遭遇しましたが、海底部23.3kmを含む全長53.85Kmの本坑が完成しました。現在、年間約188万人(札幌市の人口約175万や熊本県の人口約186万をうわまわる)というたくさんの人たちに利用されています。


鉄道トンネルとしては、53.9kmと日本一であるとともに、英仏間にあるドーバー海峡のユーロトンネル49.9kmをもしのぎ世界一の長さでもあるのです。

余談になりますが、英仏(ドーバー)海峡に最初にトンネルを掘る構想を実行しようとしたのは、彼の辞書には不可能の文字がないと言われたナポレオンその人です。ナポレオンのこの計画以降も、何度も実施されては中止という歴史を繰り返してきました。今回のユーロトンネル建設では、東京湾横断道路などにも使用された、日本が世界に誇るたくさんの最先端の海底トンネル掘削技術(海水をとめるための注入工法ほか)や最先端の掘削機4基(合計11基のうちイギリスから6基、アメリカから1基)が投入されました。

とくに困難を克服し大活躍したのは、フランス側の立坑からイギリスに向けて海底部を進んだ南北主トンネル(内径7.6m)2本を掘った日本の掘削機であり、このとき日本のトンネル・ボーリング・マシン(掘削機)の月進速度は、最高1200mに達し、水底トンネルの掘削速度としては世界一の記録をつくったのです。

建造物は誇りと情熱の賜である


最後に、青函トンネルの仕事に長期にわたり従事された方の手記の中から一部紹介します。その言葉は「…トンネル掘削は決して平坦なものではなく、それは山との闘い、水との闘い、風との闘い、そして時間との闘いであった。しかし、人々の英知と技術を結集した青函トンネルは、われわれが残す『未来への遺産』であると信じている。こうして完成することができたのは、もちろん技術の進歩と機械の大型化などのおかげであるが、もう一つ、私はここで働いた人たちの『誇りと情熱の賜』であるとおもっている」と結んでいます。この言葉は、私たちが造る物の規模の大小やその種類にかかわりなく、建設産業に働く私たちが大いに共感するところですし、胸にジンとくるものがあります。

列車に乗って津軽海峡の下を通るとき、そのような快適な旅を可能にしてくれた多くの人々に感謝するとともに、思いをはせながら乗らずにはいられません。

ごく一部の建造物しかみてきませんでしたが、いろいろな意味で社会の役に立っていることを再認識したしだいです。また、私たちの産業は夢を形にしたり、多方面にわたる要望を具現化できる産業であると思います。世界でも最先端を行く技術と蓄積された経験により、今後とも社会に貢献する産業であり続けることを確信しています。
厳しい時代ですが、今後とも“自信と誇り”をもって生きて行こうではありませんか。■



参考文献

「トップランキング事典」上野富美夫/東京堂出版
「土木屋さんの仕事 トンネル」森田武士/三水社
「郷土に歴史的土木事業を訪ねる」渡辺 栄/山海堂
「別冊新建築 三菱地所」/新建築社
「架橋組曲 明石海峡大橋」本州四国連絡橋公団/(財)海洋架橋調査所
「川は生きているか」矢野礼子/岩波書店




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