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石田三成の人物像を現代に考える

戦国の世に義を貫いた人を思う

日建協 副議長 小泉大宗


 責任あるリーダー不在のこの時代に……

関ケ原決戦地
 現代の日本では、公的年金の財政悪化、北朝鮮の拉致被害者問題、また、郵政民営化の問題など、国のリーダーたちが責任ある決断を下すべき問題がたくさんあります。しかし、これら諸問題の迷走ぶりを見て、この国のリーダーたちは、本当に国の将来や国民の平安を願い、当事者意識を持った決断をしているのかと疑問に感じているのは私だけでしょうか。
 現代のリーダーたちのことを憂いていると、私がいつも考えてしまうのは、四百数十年前に、戦乱の世を憂うとともに、万民の暮らしを考え、太平を願い、天下統一をめざした戦国武将たちです。
 みなさんは、戦国武将のなかで誰がお好きですか。過去の既成概念にとらわれず破天荒な改革を行った織田信長でしょうか、また、農民から身を起こして、立身出世をし、天下を統一した豊臣秀吉でしょうか、もしくは、長きに渡る辛苦に耐え、二百五十年に渡る天下泰平の礎を築いた徳川家康でしょうか。その他にも、武田信玄、上杉謙信、毛利元就など、勇猛果敢で名をはせたり、深慮により舵取りをしたリーダーたちが、この時代にはたくさんいました。
 そのなかで、私が自分の人生や仕事をだぶらせて、一番大好きな人は、石田三成です。「なぜ石田三成なの?」と不思議に思った方が多いと思いますので、ここからは、みなさんの疑問点を解消し、三成の名誉挽回のため、彼の人生や歴史上で果たした役割などを、現代に投影していくというちょっと変わった視点で、お話していきたいと思います。


 石田三成とは、どんな人物像だったんだろう?

 私たちはよく歴史ドラマで演じる俳優さんに、その人物像をだぶらせ、そのひととなりをイメージしますが、石田三成ほど、物語やドラマによって、描かれかたが違う人もいないのではないかと思います。最近は以前ほど高視聴率ではありませんが、NHKの大河ドラマや年末年始の大型時代劇では、ほんとにいろんな俳優さんが彼を演じています。私が記憶しているだけで、近藤正臣さん、奥田瑛二さんの演じたナイーブな三成、鹿賀丈史さん、宅麻伸さんが演じた少しクセのある三成、加藤剛さん、江守徹さんが演じた熱い三成とさまざまです。これだけいろいろな三成像をイメージさせられると、ではどれが一番実像に近いのか考えたくなりますよね。
 では史実による三成の人生がどうなっているかというと、1560(永禄3)年に近江の国に生まれ、15歳の時に当時長浜城主であった豊臣秀吉に見い出されました。秀吉に仕えた後は、当時の武士があまり持ち合わせていなかった行・財政の才能を高く買われて、豊臣政権の実行する政策に次々と関わっていきました。有名な『太閤検地』と『刀狩り』をはじめとする豊臣平和令と称される一連の法令などに関与をし、堺や博多などの商
佐和山城址
業都市の都市政策や都市計画に深く携わったそうです。また、秀吉の生涯において最大の失敗である朝鮮出兵においては、船舶や兵糧の段取りなどの補給という重要な任務に、その辣腕を発揮しました。
 また、彼の生涯において武功といえるものがほとんどなかったことから、同じ秀吉子飼いの大名でも、加藤清正、福島正則、細川忠興などの武功派の大名とは、この頃から序々に対立を増してきました。その後豊臣政権の執政官である五奉行に任ぜられ、1595(文禄4)年には佐和山城主として19万4千石の大名となりました。
 そして、1598(慶長3)年の秀吉の死去により、いよいよ彼の人生において、最大の企てである関ヶ原の合戦へ歴史が動いていくのです。それでは、関ヶ原の合戦をとおして、もう少し史実により、三成のことを検証して行きましょう。


 天下分け目の大決戦と三成の人物像

 三成が、なぜ徳川家康追討のための挙兵に及んだかについては、2つの説があります。ひとつは、幼少の頃より秀吉に重用され、大名にまで取り立てられた恩に報いるため、幼い遺児豊臣秀頼の天下を家康から守って、豊臣恩顧の大名を結集し、義による戦いを行おうとしたという説です。司馬遼太郎さんの小説『関ヶ原』で描かれているのはこちらの三成ですね。もうひとつは、三成は天性の野心家であり、秀吉の死後、幼君を奉じて自ら天下を握ろうと考えていたという説です。
 私は司馬遼太郎さん同様、前者の説を支持したいですね。その理由は、関ヶ原の合戦が三成首謀の戦であることは事実上間違いないのですが、西軍の総大将はあくまで大阪城にいた毛利輝元であり、諸大名に号令できるだけの地位・勢力と名声を三成自身備えていませんでした。この合戦において、三成は立場上一武将に過ぎませんでした。外川淳さんの著書『完全制覇 関ヶ原大合戦』における、当時の参戦大名の力量を相撲の番付になぞらえて、比較した表では、家康が東軍の横綱であったのに対し、三成は西軍の張出関脇程度の実力であったとのことでした。つまり、この戦いに勝利していたとしても、西軍には、毛利輝元や上杉景勝、宇喜多秀家などの大老職を務める有力大名がおり、いくら幼君を奉じたとしても、とても三成が意のまま天下を動かせるような状況ではありませんでした。
 また、明治以降の軍人や軍略家は、合戦の陣形や両軍の当初の勢力をみれば、小早川秀秋の裏切りや毛利勢の日和見的な姿勢がなければ、必ず西軍が勝利していたという見解を出しています。おのれの野心のために、功をあせった戦であれば、そこまで完全な布陣はひかなかったではないでしょうか。つまりそれくらい、三成にとっては、この戦は豊臣家のためにも、義のためにも、負けるわけにはいかない戦であったのです。
文官としての石田三成
 それでは、なぜ三成が義を掲げて、それほどまでに負けない布陣をひていたにもかかわらず、数々の裏切りに会い、敗れ去ってしまったのでしょうか。
 ひとつは豊臣政権内のエリートとして、実務をてきぱきとこなしてきた彼には、恩賞などの見返りさえだせば必ず味方になると考えるようなところがあったことです(小早川秀秋には、勝利の後には関白の座を約束していました)。また、武功のなさから来る戦の経験不足も敗因のひとつでした。彼の重臣である島左近は、「家康を暗殺すべき」と進言しており、また何度もそのチャンスがあったにもかかわらず、彼は「暗殺は義に反する。これだけ味方の戦力が整ったのだから、正々堂々と戦場にて、家康と雌雄を決するべきである」と主張したそうです。このふたつとも、歴戦の勇士である島左近からすれば、自らの主君である三成は、いかにも詰めが甘いというふうに映ったのではないでしょうか。


 三成の人物像を現代に投影してみると……

 関ヶ原以前と合戦をつうじて、三成の人物像を私なりに分析してみますと、彼は歴戦の勇士というよりは、経理や法律論に明るい実務家であり、その道で優秀すぎたために、秀吉に重用され、戦功がないわりには、異例の出世をしたことで、周りからのねたみの対象となっていたようです。また、合戦に際しては、戦経験の少なさを露呈してしまった感はありますが、常日頃から自分の武功の少なさを自覚しており、島左近をはじめ、他家で武功のある歴戦の兵を高禄で召し抱えるなど、有事に際し、自分に足りないものに対する備えを怠らなかった人であったのです。また、義を重んじ、亡き秀吉の恩顧に報いるために私心を捨てて、家康という強大な敵に対して、天下分け目の戦いを挑み、武運つたなく敗れたのでした。
 しかし、三成程度の地位・禄高の人間が、家康のような大大名に歯向かったことを愚劣と論ずるのではなく、いたって普通の優秀な実務家が、よくここまでの戦を、家康を相手にできるような体制まで持っていけたものだと私自身感心する次第です。元経済企画庁長官である堺屋太一さんは、三成を主人公としたその著書『巨いなる企て』のなかで、「当時の家康と三成の関係を現代の会社に置き換えてみると、豊臣株式会社は、創業者オーナー(秀吉)が急速な企業合併を繰り返して、大きくなった会社であった。そして、創業者の死後、外様ではあるが、実力ナンバーワンの副社長(家康)が、いよいよ社長の座をめざして、創業以来の古参の役員(福島正則、加藤清正など)を巧みに取り込み、創業者の息子を脅かしはじめた。これに対し、創業者に抜擢された秘書課長(三成)が大恩に報いるため、副社長の野望を阻止するために立ち上がったというような図式であり、これは2人の階級の差を考えると大変なことである。」と語っています。
 私は三成が秘書課長というよりは、彼が経理や法律論に明るい実務家であることを考慮すれば、総務・経理課長のほうがふさわしいと思いますが、それにしても、現代の会社社会で創業者の恩に報いるためとはいえ、一課長が副社長に対してけんかを挑めるでしょうか。そういうふうに考えると、三成が家康と対峙するところまで持っていけたということは、まさに巨いなる企てであったことが、みなさんにもよく理解できると思います。


 三成の人物像を建設産業で働く自分自身に置き換えてみると……

関ヶ原決戦地
 三成ファンの私としては、最近よく考えることですが、三成の豊臣政権での仕事は、現代、建設産業で事務屋として働く、自分自身の仕事によく似ているなと思います。三成は豊臣政権という急速に拡大していった武家の集団のなかで、行・財政の才能を十二分に活かし、武功を積み重ねるのではなく、常に補給任務をそつなくこなすことで秀吉に認められるとともに、それを自分自身のやりがいとして生きていたのだと思います。
 一方、私はというと、今年で入社17年目をむかえていますが、入社以来作業所事務5年、経理畑10年の経験を積み、その間ずっと、工事の最先端で働く技術集団である土木屋さん、建築屋さんと一緒になり、経理・税務や法律の知識をもって、会社の業績向上に努めてきたきたつもりです。
 また、三成は自分の戦場経験のなさを、島左近・蒲生郷舎などの武功で名高い武将を高禄で多数召し抱えることで、自分に足らないものを補おうと常に努力していました。一方、私はどうかというと、高給で土木屋さんや建築屋さんを召し抱えたりはできませんが、組合活動をつうじて、職場で働いていたとき以上に、技術職の方と出会うことができたため、建設会社で事務屋として仕事をしていくうえで、貴重な財産を得ていると思っています。
 

 現代において義を貫くこと

関ヶ原三成陣所
 私の仕事への姿勢と三成の功績を一緒に語ることは、みなさんから「強引だ!」とお叱りを受けそうですが、それぐらい三成に傾倒しているということで、ご容赦ください。
 さきほどからよく出てくる言葉で、また三成が好んでよく使った言葉でもある“義”は、「ものの道理がとおっている」という意味です。冒頭で現代のこの国において責任感のあるリーダーがいないと、世情を憂いていましたが、私自身も三成のように、“義”をもって、仕事ができているのか、はたまた生きていけているのかは疑問です。私もあと1年と2ヶ月で41歳になり、三成が関ヶ原で敗北し、京都の六条河原で斬首された年齢になります。私は三成のように、その年齢で巨大勢力相手に“巨いなる企て”をすることはできないでしょうし、ましてやそんな能力や勇気を兼ね備えているかどうかも自信がありません。しかし、これからは戦国の世に命をかけて`義aをもって生きた三成を見習い、現代のような道理のとおらないことがまかりとおっている時代を、力強く生きて行きたいと思います。
 私は旅行が大好きで、最近は1年に1回ぐらい家族旅行をしていますが、家族といつももめるのは、私が古戦場めぐりを好きなことです(歴史に興味のない人には、ただの原っぱですからね、仕方ありません)。でも、今年も嫌がる妻と息子に付き合ってもらい、関ヶ原の古戦場へ行き、笹尾山の石田三成陣所跡から関ヶ原盆地を見下ろして、四百余年前の兵どもが、しのぎを削る姿を思い浮かべるとともに、`義aに生きた男に思いをはせたいと思います。

参考文献:
外川淳 著 「完全制覇 関ヶ原大合戦」
堺屋太一 著 「巨いなる企て」
学習研究社 編「歴史群像シリーズ 決戦関ヶ原」

2004.Nov/Vol.759
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