Vol.757/2004
 このコンパスが届く頃は、陽光の暖かさに包まれ、新緑が眩しく、一年でいちばん清々しい季節ではないかと思います。新入生、新入社員のみなさんも今では落ち着き、これからさまざまな場面で本当に「芽吹く」力を発揮されることでしょう。こちらまであふれ出る生命力に圧倒させられる、そんな季節だと思いますが、みなさんはどのように感じていらっしゃるでしょうか。
 さて、これまでの特集記事では、「ツーリング」や「和の心」、日建協事務所のある「高田馬場周辺のおいしい店」など皆さんに一息ついてもらうために、いろいろなジャンルから紹介をさせていただきました。しかし、無芸無趣味のわたしとしては、とりとめのない話を思いつくままに書いてみようと思います。五月病を克服したかた、
 忙しいなかでの家族サービスでいささか疲れ気味のかた、はや連休を懐かしんでいるかた、なかなか休めなく疲れが蓄積されているかた、そんなみなさんに「ほっ」と手を休めて読んでもらえれば幸いと思います。



 これといった趣味もあるわけでもなく、人込みは大嫌いのうえに生来の出不精なので賑やかな場所や遠方へ出かけることの少ないわたしですが、ただ散歩だけは億劫に感じないばかりか、むしろ好きなようです。
 子供の頃からも「道草の帝王」で、学校帰りにひらひらと舞う蝶々をどこまでも追いかけていました。社会人となり家庭を持つようになってからも、まだ足元もおぼつかない一男一女の手を引いて、近所の河原に連れて行き、菜の花や小さな野花を眺めたり、葉っぱを川に浮かべて競わせたりしていました。普段歩いている場所や通いなれた道でも、桜やサツキが咲き継ぐ様子や蝉の鳴き声、色づいた庭先の柿の実や地面に張った氷など巡る季節のなかで小さな変化を感じられ、つかのまの安息感を与えてくれます。
 散歩の良さは、何より自分が気の向いたときにできるという手軽さと健康でさえいればお金がかからないところだと思いますが、仕事や生活の緊張感からしばし開放されるのもうれしいことの一つです。しかし密かな優雅さを楽しむ一方で、散歩していて気分を損ねるのは、坂道の存在です。時間をあまり気にしなくてよい散歩をしていてもつらいのですから、日常外出して歩いているときは、尚更気分を損ねます。



 ところで、東京には、坂が多いとよく聞きます。最初のうちはただ何気なく「そうなんだ」と納得していましたが、次第に「なぜ東京に坂が多いのか?」と思うようになりました。さらには、「じつは東京については何も知らないな」ということに気づかされました。


江戸の原風景
800年前の江戸。ただただ葦やすすきばかりがおいしげる原野だった。日比谷入江は遠浅で波静かだったので、海苔がたくさんとれた。江戸前島の東を流れる平川流域には、早くから人が住み着き、村が出来ていた。この付近一帯を支配したのが坂東武者の棟梁、江戸重長で、麹町台地の東端に江戸館を建て、鎌倉幕府開闢の際に活躍したといわれる。江戸前島は現在の千代田区大手町、丸の内、有楽町、内幸町、中央区の銀座、京橋、日本橋、その南端は旧潮留駅構内にあたる。





 日建協執行部に選出され3年経ちますが、現在は単身赴任生活をしています。単身赴任も初めてではなく、実は今年で9年となります。そのうち6年を東京で過ごしている勘定になりますが、東京のことは全くといっていいほど何も知りません。毎日、何処へ行っても人が多いことにいささか閉口しながら過ごすばかりで、東京という所に慣れ親しもうとさえもしていないことをあらためて感じました。せっかく日々を過ごしている土地ですから、少しばかり東京の歴史や東京の坂道についてウンチクを学んでみようと思います。みなさんには、その一端を紹介させていただきます。
 東京に住んでいる方は、今更と思われるかもしれませんし、東京以外に住んでいる方には「興味なんかない」と思われるかもしれません。しかし、東京に住んでいる方にはあらたな発見になるかもしれませんし、東京に住んでいない方には、出張や観光で東京に訪れた際に思い出してもらえれば、こちらとしては、しめたものです。いずれにせよ、いくつ「へぇ〜」ボタンが押せるのか試していただきたいと思います。



 江戸が東京と改称されたのは、1868年のことです。このときの東京の読み方は、「トウキョウ」ではなく、「トウケイ」であったそうです。これは、京都を「セイケイ(西の都)」と呼ぶことに対し、東の都という意味で「トウケイ(東京)」と名づけられたとのことです。「トウケイ」が「トウキョウ」に変わったのは、一般的には明治10年代頃といわれていますが、はっきりしません。
 2003年は江戸が開府400年を迎える年にあたり、東京でも記念事業が開催されました。江戸に徳川家康が入府したのは、ご存知のとおり1603年です。「江戸」という地名は、「入りの門」が語源であり、平安時代後期には江戸氏がこの地を支配しました。(わたし自身は、未開の地という意味で、「浄土」に対する「穢土」に由来するものと勝手に思い込んでいました。)
 徳川家康が居城を築いた江戸を設計したのは、天台宗の僧、天海であるといわれています。天海は明智光秀が秀吉に敗れ、生き延びた後身ともいわれていますが、関東のいくつもの有名寺院を管理する高僧でした。天海は関東一円を手に入れた家康の居城の地として、陰陽道にもとづく四神相応の地として江戸を選びました。四神相応とは、江戸城を基点として北に山、東に川、南に池か海、西に道があるのを、それぞれ「玄武」「青龍」「朱雀」「白虎」とし、この四つの条件すべてにあてはまる理想の地形をした土地のことです。陰陽道といえば、ブームにもなった安倍清明を描いた、夢枕獏などの「陰陽師」を思い浮かべますが、清明が活躍した平安京も陰陽道にもとづき都として選ばれています。
四神相応の図
山を背にして南前方に海を眺め、太陽の光をいっぱいに浴びつつ東から清流を引き、飲み水をふんだんに使いながら、西の道から運ばれてくる食料で豊かに生活する――これが人間にとっての理想郷であると陰陽学は教えている。江戸の場合、南に日比谷入江があって、町づくりの平地は東に広がっていたので、朱雀―玄武の南北軸を112度あまり東北東へ振って、ここに城の正面=大手を置いた。そして平川を青龍、江戸湊を朱雀、東海道を白虎、麹町台地から富士山を望んで玄武とした。「龍ノ口」「虎ノ門」などの地名はその名残り。

 また、陰陽道では北東を鬼門、南西を裏鬼門と呼び、不吉な方角としています。都市建設に際しては鬼門、裏鬼門にそれぞれ神社や寺院を建立し、鬼門封じや裏鬼門封じとしました。京都において、鬼門にあたる比叡山に延暦寺を建てたのも鬼門封じのためだそうです。
 江戸の建設にあたっても、天海は鬼門封じ、裏鬼門封じを行っているようです。江戸城の東北、鬼門にあたる上野に東叡山寛永寺を築きました。また裏鬼門封じとして、徳川家の菩提寺である増上寺を日比谷から江戸城の南西に移しました。東叡山寛永寺の東叡山とは、京都の鬼門封じである比叡山に対する、東の比叡山の意です。
 そして、家康と天海は、江戸の守り神として、たたり神である平将門を祀り、首塚を江戸開発の出発点とするため、江戸城の大手門を首塚の正面に設けました。また将門を祀る「神田明神」を鬼門にあたる駿河台、外神田に移したとのことです。



 現在の東京でも「山の手」、「下町」と呼んだりしますが、「山の手」は、山の方、山の里を意味し、もともと四谷・青山・市ヶ谷・小石川・本郷あたりの地域のことをいっていたそうです。「下町」は、江戸城下の町「下タ町」の意味で、京橋・日本橋・神田あたりを指していたそうです。このほかにも地名の由来をいくつか挙げてみることにしましょう。

江戸っ子の本拠地「佃島」のルーツは、大阪の移民
 江戸っ子のシンボルとしても有名な佃。家康が江戸入府の際、摂津国(せっつのくに)佃村(現大阪市西淀川区)の漁師が招かれ、関西の漁業技術を関東に広める役目と海からの侵入から江戸城を守るための監視役として江戸に移住し、故郷の地形によく似た孤島に移り住み、その地名を佃島としたこととされます。彼らは江戸湊で自由に魚をとる特権を持っていたかわりに、とった魚を毎日将軍に献上する義務を負っていました。江戸城へ納めた残りは市中で売ることができ、日本橋の魚河岸が生まれました。また、佃煮は、佃の漁師の保存食であったそうです。

吉祥寺がない「吉祥寺」
 武蔵野市の吉祥寺は、住宅地であり、井の頭公園やおしゃれなお店が立ち並び、若者にも人気の町です。
 しかし、地名である「吉祥寺」という寺は、この地ではなく、文京区の本駒込に存在しています。これは、10万人の死者を出した明暦の大火により、江戸の中心地を火除けとして空き地にするため、吉祥寺の門前に住んでいた住人や浪人を武蔵野の原野に土地を与え、新田を開拓させたことに由来するそうです。ちなみに三鷹市の上連雀、下連雀も神田の連雀町の人々が移住してきた新田開拓の名残だということです。

日暮里は風光明媚なところ
 日建協が定期大会を開催している日暮里は、新しく開拓したという意味で「新堀」と呼ばれていました。その名が「日暮里」と呼ばれるようになったのは江戸時代中期からで、四季折々の花が咲き、丘があり、一日いても飽きることがなく、日の暮れるのも忘れてしまうことから、こう呼ばれることとなったそうです。西日暮里4丁目付近の台地は、道灌山と呼ばれ、江戸時代には眺めがよく、筑波や日光の連山、そして下総国府台(こうのだい)(千葉県市川市)などを望むことができました。また「虫聴き」の名所としても知られ、涼を求めて人々が集まったところでもありました。

その名のとおりの「御茶ノ水」
 労働組合のナショナルセンター、「連合」がある御茶ノ水は、じつは通称で正式な行政名ではありません。JR御茶ノ水駅の御茶ノ水橋口前にあるお茶の水交番のそばには、お茶の水由来碑が立っています。近くにあった高林寺という寺の庭に清水が湧いており、二代将軍秀忠がその水質をほめ、お茶用に献じられたことからそれ以来、御茶ノ水と呼ばれるようになったようです。
 その昔、神田川沿いの渓谷は、夏の蛍がつとに有名でしたが、冬に雪を得ると、漢画の世界そのままの幽玄の趣がかもし出されたということです。

電気街でにぎわう町も昔は「空き地」
 秋葉原といえば、ご存知の通り世界に知られる電気街であり、海外からの観光客やパソコンマニアでにぎわう有名な場所です。しかし、この地は昔、度重なる火災の被害を防ぐための火除け地であり、空き地であったそうです。秋葉原と表記されるようになったのは、静岡にある火伏せ信仰の中心であった「秋葉神社」をつくったことによります。そのため、「あきばっぱら」と呼ばれ、今も地元の人には「あきはばら」ではなく、「あきばっぱら」が正しい呼び方という人がいるそうです。



 図のとおり家康が江戸入りした時の地形は、現在の東京と大きく違っていました。乾いた土地は、江戸城の西や北側にある草原や林の大地だけで、低地は利根川の氾濫により湿地帯であったそうです。家康は、この江戸に居城を築くため、大規模な治水事業を行いました。湿地の原因である川の氾濫を防ぐために、江戸湾に流れ込む水量を減らそうと考え、南下して江戸湾に流れ込む利根川を太平洋にそそぐよう流れを変えました。これには、なんと約200年の歳月をかけています。
 また江戸城への水路を整え、たくさんの堀に橋や「見附」と呼ばれる城門を設けました。現在の地名に浅草橋、飯田橋、水道橋と「橋」のつく地名が多いのもそのためだそうです。
 そして、今の駿河台やお茶の水にあたる神田山を切り崩し、その土で日比谷の入り江を埋め立てました。土地造成した埋立地を武家地とし、江戸前島を町人地としたようです。
 こうした都市の発展にともない、道が整備される過程で台地と低地の崖や斜面に坂がつくられました。東京の坂は多くが江戸時代以降につくられたものなのだそうです。
 また、幕府は町づくりの際に、坂を都市機能の境目として利用したようです。つまり、四谷、青山、市ヶ谷、本郷など坂上には、大名や旗本の武家屋敷と寺社を、京橋、日本橋、浅草などの坂下には商工業を担う人々を集めました。その後、坂上の人々は買い物や遊興のために坂下に、坂下の人々は商売のために坂上に行き交うようになったようです。
 坂はさまざまな出会いの場所でもあったのです。



 古くより坂は境目とされてきました。古事記のなかにもある、イザナギノミコトが黄泉国(よみのくに)から戻るときに通った「黄泉津平坂(よもつひらさか)」もこの世とあの世の境目として有名な話です。しかし、東京(江戸)の坂については前述したとおり、はじめは境目としてつくられたそうですが、出会いの場としての意味合いが強くなり、むしろ親しみを込めて呼ばれることが多かったのだと思います。坂の名前は、州徳川、張徳川、伊家の屋敷が近くにあった紀尾井坂など、近くの大名屋敷から名づけられたものやそこから富士山を眺めることができたために名づけられた富士見坂などさまざまですが、以外とイージーにつけられた感じがするのも、生活に親しみやすくしたためなのでしょうか。
 東京の坂道は700以上もあり、すべてあげるわけにはいきませんが、坂によっては、歴史上のエピソードを抱えるものも多く、調べてみるのも面白いでしょう。少し面倒だと思われる人は、文芸社から朝倉毅彦氏が「江戸・東京 坂道物語」という本を出していますので、御一読をおすすめします。
 また意外と坂道に興味を抱いている人も結構いるようで、タモリが主催する「日本坂道学会」なるものも存在するようです。ホームページ 坂道コレクション東京23区の坂道は丹念な写真と名前の由来を知ることのできる便利なサイトです。

九段坂―くだんさか 神楽坂―かぐらさか 津の守坂―つのもりざか
幕府が中高級の幕臣のために、御用屋敷を9段に建てそれが「九段屋敷」と呼ばれたことからこの名がついたといわれています。
千代田区九段北〜北の丸公園〜九段南
江戸城に対して神楽を奏していたとも、この坂に赤木明神の神楽堂あったからともいわれています。
天明の復讐という仇討ちの舞台にもなりました。
新宿区神楽坂2丁目〜5丁目
防衛庁の敷地がきれるあたりにある坂道。この坂の中腹に「松平摂津守」という大名屋敷があったため、津の守坂と呼ばれました。このあたりは東京オリンピックまでは芸者衆の出入りする遊興の街でもありました。
新宿区荒木町〜三栄町
左内坂―さないさか 成子坂―なるこざか 実盛坂―さねもりざか
江戸時代初期に周辺の土地とともに開発された坂で、坂の中腹に屋敷があった島田家の当主が代々「左内」と名乗っていたため、その名が地名となったそうです。新宿区左内町

坂の途中にある、「成子神社」からその名がつけられました。縁日には成子坂一円は非常に賑わったといわれています。
西新宿8丁目〜6丁目
坂下に、平家に味方し木曽義仲との戦い敗れた、斉藤別当実盛の首塚や首洗いの井戸があったという伝説から坂の名がついたようです。
文京区湯島3丁目
潮見坂―しおみさか 綱坂―つなさか 道玄坂―どうげんざか
坂上から芝浦の海辺一帯を見わたせ、潮の干満を知ることができたために、この名がついたそうです。
港区三田3丁目
羅生門の鬼退治で有名な渡辺綱がこの付近で生まれたという伝説によります。
港区三田2丁目
渋谷氏の一族である大和田入道道玄がこの坂の傍に住んだことに由来するそうです。
渋谷区道玄坂2丁目
宮益坂―みやますざか
御嶽神社の神社門前の意味で、付近を宮益町といったためにこの名がついたとのことです。
渋谷区渋谷2丁目〜1丁目



 坂道は、当然いまも東京に残っています。数が多い坂道のなかには、傾斜のきつい坂、緩やかな坂、長い坂、短い坂などいろんな坂があります。坂道を歩くのは少なからず辛さを感じるものですが、不便を感じても今もなお坂道は存在するのです。
 ところで人間は元来、自然に抗い征服することを欲しているのではないかと感じることがあります。太古より人は山や野を切り開き住む地を求め、道をつくり、川に橋をかけました。こうした行為を繰り返しながら、人は現在までに至りました。自然に抗うからこそ、人は一方で自然を畏れたのではないでしょうか。噴火や土砂崩れを起こす山を神として、雷を天神として、川や湖を竜神として畏れ崇めたのも、その根底に、人のなかに自然に立ち向かい征服下におこうとする本能みたいなものが存在しているからではないかと思います。
 こうした、人が自然に抗い立ち向かっていったことも、もとはただただ生きるためであったように思います。まずは寒さに震え、雨や風にさらされることから逃れるために家をつくり、獣から身を守るために道をつくり、後には疫病などを防ぐために下水道を備えたりもしました。
伊皿子坂
魚籃坂につながり, 現在の伊皿子坂交差点から 泉岳寺方面に 下りる坂。明国人 伊皿子(いんべいす) が住んでいたと伝えらえるが, ほかに 大仏(おさらぎ) のなまりとも いさらふ(意味不明)の変化ともいう。田町の屋根と芝浦が見えた。
 そうして最初は生きるために自然に挑んできた人間も、日々を重ねていくうちに利便性を追い求めるようになり、「生きるため」をどこかに置きざりにしてきたのではないかと思います。かける必要をあまり感じない電話をいつでもかけられようにし、移動の際にはスピードを要求し、本当に人間の利便性への欲求は尽きることがなく、驚かされるばかりです。
 しかし、生活に利便性を求め続けている人間も、不便であること極まりない坂道には手をつけなかったようです。技術だけの点なら平にすることに何ら問題はないのでしょうし、便利になるのであれば誰も文句は言わないだろうと思いますが、坂上の先が見えないことに神秘性を感じるのか、上りきったときの達成感が心地よいのか、現在も東京にはこのように坂道が残っていることは不思議なことです。



 閑話休題。
 日々の仕事をするなかで、また毎日の生活のなかでやり場のないストレスを感じることはしょっちゅうのことだと思います。ストレス発散のため、気分転換のため、理由は特になくてもよいと思いますが、会社帰りにでも、少し辛いかもしれませんが、ぶらりと坂道を散策してみてはいかがでしょうか。もちろん、坂道でなくてもいいですし、東京だけでなく、各地で散策を楽しめる場所はあると思います。気の向くままに、歴史に想いをはせるのもよし、行き交う人を眺めるのもよし、風景を楽しむものよし、とにかくしばし日頃の激務を忘れ、手軽にできるリフレッシュをしてみませんか。



 単身赴任生活に入る前は、どんなに遅く帰宅しても子供や家族の寝顔を見ているだけで、「明日がんばろう」と思えました。家族とともに過ごせる喜びは他に替えがたいものだと思います。1日でも多く、家族と過ごせるようにすることも働きがいにつながる大切な取り組みだと思います。
 さて、わたしも次に帰省した際には、久しぶりにぶらりぶらりと近所の坂道を訪ねてみることにします。あせる必要もなく、一歩一歩自分のペースで楽しもうと思います。
 もうずいぶんと大きくなり、手もつないでくれなくなった子供たちと一緒に。

※参考
・「東京・地理の謎」 双葉社 正井泰夫 監修
・「江戸・東京 坂道物語」 文芸社 朝倉毅彦 著
・「江戸の町(上)」 草思社 内藤 昌・穂積和夫
・「江戸アルキ帖」 新潮文庫 杉浦日向子
・「図説 大江戸 知れば知るほど」 実業之日本社 小木新造 監修
ホームページ 坂道コレクション 東京23区の坂道
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